何かを行う際に、必ずしも自分で動く必要はない。もちろん自分で動く方が、その何かを行うという点においては手っ取り早い。しかし、周囲の状況から積極的に行動に出ることが難しい場合があるし、率先して動くことが周囲に禍根を残すという場合も考えられる。
このような場合にもその何かを行おうとするのであれば、自分以外の人間に動いてもらう必要がある。こ の場合に考えるべきは、花とミツバチの関係である。花は自分で動かずともミツバチを媒介として受粉を行うことができる。ミツバチは何も善意で やっているわけではなく、彼らは自分たちの目的のために行動しているだけである。すなわち、彼らは蜜を集めるために花を行き来しているだけで、その、たま たまの結果として受粉が行われているというに過ぎない。ただ、この行為によって結果的に、花は自分の目的を自分で動くことなく達成することに成功しているのである。
この仕組みは人間関係にも応用可能である。つまり、自分にそれなりの魅力があればその周囲には人が集まる。そして、その周囲の人間との間で何かしらをやりたいという話をしていれば、そういった能力があってそれに足る人間であるという評価を得られているという前提付きではあるものの、直接的にやり取りをせずとも、その話は人から人へと伝わり、間接的に意図する相手のもとへと伝わるということになる。
他の国の社会がどうかなどということを口にするほど詳しくはないけれども、何かをやろうとする者への反発が強いというのは日本の特徴としてたびたび主張されることである。アメリカン気取りでそんな慣習を無視するのも一つの手ではあるものの、それは狭い社会にいる限り最後の手段とすべきものである。特に地方、特に役人の世界ではそういった風当たりが強い。よって、何かをやるにはこれくらいの慎重さが必要であろうかと思う。
2009年4月29日水曜日
2009年4月25日土曜日
「できた」と「できる」じゃ大違い
何かが「できた」からと言って「できる」わけではない。この二つは似ているけれども、まったく別物である。その違いは歴然としている。後者はいつでもそれを繰り返すことができるということであるのに対して、前者はその可能性などはまったく考慮せずに結果を残すことができたかどうか。
この混同が世の中に溢れており、世を惑わせている。たとえば難関大学合格であっても、宝くじ一等当選でも、美人の彼女ゲットでも。それが達成しにくいものであればあるほどに、「できる」ということなどはあり得ない。何にせよ様々な他の影響を受けて存在しているのであって、それらを無視できるほどの個人的資質を持つ者は限られている。であればこそ、それを「できる」などという者は疑ってかかるべきである。たとえそれが「できた」者であったとしても、それをその者が繰り返し何度でも「できない」限り、それは「できた」であって「できる」ではないのであり、その何かを行うにあたってその者を信頼するわけにはいかないのである。
何かにすがりたくなるのは人の常であるが、それが人の常であるが故にそれは飯の種となる。人の常は飯の種。その場合に手っ取り早いのはこの混同を利用する方法である。気をつけるに越したことはないだろう。
この混同が世の中に溢れており、世を惑わせている。たとえば難関大学合格であっても、宝くじ一等当選でも、美人の彼女ゲットでも。それが達成しにくいものであればあるほどに、「できる」ということなどはあり得ない。何にせよ様々な他の影響を受けて存在しているのであって、それらを無視できるほどの個人的資質を持つ者は限られている。であればこそ、それを「できる」などという者は疑ってかかるべきである。たとえそれが「できた」者であったとしても、それをその者が繰り返し何度でも「できない」限り、それは「できた」であって「できる」ではないのであり、その何かを行うにあたってその者を信頼するわけにはいかないのである。
何かにすがりたくなるのは人の常であるが、それが人の常であるが故にそれは飯の種となる。人の常は飯の種。その場合に手っ取り早いのはこの混同を利用する方法である。気をつけるに越したことはないだろう。
2009年4月22日水曜日
カルピスの原液は濃すぎる。
抽象論が偉いわけではないということを言いたい。そんなものはそのままでは何も役に立たないものであり、それはたとえるならばカルピスの原液なのだ。それを適度に薄めることによってこそ、人間の飲み物として成立しうる。これと同様に、抽象論は結構であるが、それがすぐにそのままの形で適用できるということはあり得ない。何にせよ様々な要因があり、それらとの関係でもってあらゆることが行われるのであり、それらをすべて捨象した状態で考えられた抽象論はそのまま現実に適用されるものではないのである。
にもかかわらず、現実にはそれがさもすばらしいことであるかのように喧伝するさかしらどもが実に多い。それは確かに正しい。それは学問的意味において、という意味で、厳密には、ということである。とはいえ、理屈として正しいということと、それで人間がハッピーかということはまったく別物である。それはむしろ相反すると言っても過言ではない。自分で自分のことを振り返ってみれば分かるように、人間とは実にいい加減なものである。すべてがすべて、理屈で動いているわけではない。そして、そのいい加減な状態がすべて望ましくないわけではない。
そもそも、何の制度でも法律でも、そのものの美しさのためにそれは存在しているわけではなくて、それは人間の生活の利害関係など何らかの役割を担っている。抽象論ばかりを並べ立てる連中はその辺が理解できていないのであって、本末がすっころんでしまっている。その手の人間と対面する際には、このカルピスのたとえというのが何となく役に立つのではないかと思われる。
にもかかわらず、現実にはそれがさもすばらしいことであるかのように喧伝するさかしらどもが実に多い。それは確かに正しい。それは学問的意味において、という意味で、厳密には、ということである。とはいえ、理屈として正しいということと、それで人間がハッピーかということはまったく別物である。それはむしろ相反すると言っても過言ではない。自分で自分のことを振り返ってみれば分かるように、人間とは実にいい加減なものである。すべてがすべて、理屈で動いているわけではない。そして、そのいい加減な状態がすべて望ましくないわけではない。
そもそも、何の制度でも法律でも、そのものの美しさのためにそれは存在しているわけではなくて、それは人間の生活の利害関係など何らかの役割を担っている。抽象論ばかりを並べ立てる連中はその辺が理解できていないのであって、本末がすっころんでしまっている。その手の人間と対面する際には、このカルピスのたとえというのが何となく役に立つのではないかと思われる。
手間を省く手間を省くな。
書いてあるとおりだが、手間を省く手間を省いてはいけない、ということである。仕事にせよ、勉強にせよ、今までのやり方をやるか、それとも別のやり方を考えるか、という選択肢がある。
前者の方が手っ取り早いと言えば手っ取り早いのだが、そればかりでは進歩がない。何にせよ方法を検討し、それを改善していくことによって、より効果的、より効率的な結果を得ることができるようになる。それは未来への先行投資であり、それがすぐに花開くとは限らないし、まったくの見当外れと言うこともある。つまり、時間の無駄となってしまうこともあろう。けれども、結果的にそうなったとしても、その経験はその人間の中で一つの結果として蓄積されるのであり、それはその人間の一つの糧となる。その意味で、それは単に無駄ということにはならない。
また、どうすればより効率的、効果的になるのか、という視点で物事を見ていれば、どんなにつまらないことも多少は楽しめるようになってくるように思われる。誰だって退屈でつまらない単純作業をやらされるのは嫌だろう。しかし、そういった作業であっても、こういった視点を持ちながらやっていれば楽しみも生まれてくる。その感覚は、汚い部屋を掃除しようというときの若干の高揚感に似ているような気がする。
そういうわけで、手間を省く手間を省いてはいけない。それは明日の楽につながるのであり、かつそういった視点で物事を考えることで今日の楽にもつながってくるのである。
前者の方が手っ取り早いと言えば手っ取り早いのだが、そればかりでは進歩がない。何にせよ方法を検討し、それを改善していくことによって、より効果的、より効率的な結果を得ることができるようになる。それは未来への先行投資であり、それがすぐに花開くとは限らないし、まったくの見当外れと言うこともある。つまり、時間の無駄となってしまうこともあろう。けれども、結果的にそうなったとしても、その経験はその人間の中で一つの結果として蓄積されるのであり、それはその人間の一つの糧となる。その意味で、それは単に無駄ということにはならない。
また、どうすればより効率的、効果的になるのか、という視点で物事を見ていれば、どんなにつまらないことも多少は楽しめるようになってくるように思われる。誰だって退屈でつまらない単純作業をやらされるのは嫌だろう。しかし、そういった作業であっても、こういった視点を持ちながらやっていれば楽しみも生まれてくる。その感覚は、汚い部屋を掃除しようというときの若干の高揚感に似ているような気がする。
そういうわけで、手間を省く手間を省いてはいけない。それは明日の楽につながるのであり、かつそういった視点で物事を考えることで今日の楽にもつながってくるのである。
2009年4月20日月曜日
ホームメイド宗教
自分は宗教を信じている人間が理解できない。
何のために宗教を信じるのか。それは結局のところ、みんなと同じ幻想に囚われたいというだけなのではないかと思われる。そもそも宗教というものは死、そして生をどのように解釈するかというところから始まっていると聞く。
それに対する答えが、個々の宗教。それらは、その死の後のために正しく生きろと主張する。かくして宗教は、自由勝手な生活を諫め、生活に規律をもたらそうとする。
このように宗教には肯定的な面もある。ただし、それだけにとどまらないから問題なのだ。それぞれ勝手にやってくれているのであれば文句は言わないが、本質的にそんなことはあり得ない。こうだと信じることに意味があるのだから、それ以外の人間が別のものを信じていれば、当然に不安になることだろう。そして、その他者をつぶしたいと考えるようになるだろう。どの宗教も甘ったるいことを言っているが、それはあくまで同じものを信じる人間に対してに他ならない。そんなことはヨーロッパ各国が新大陸でどんなことをやっていたか考えれば容易に理解できることだ。
そんな宗教から解放されるための一つのアイディアが、タイトルに挙げたホームメイド宗教である。つまり、自分で宗教を作る。自分の神は自分で考える。内なる自分の神に対して常に誠実であろうということである。一人一人が個人レベルでの信仰を行うのだから、余計な教義も儀式もない。そして、他者の排斥などもない。実に平和的に、宗教のうまみを味わうことができる。
もっとも、こんなものが流行っていれば、世の中に既製品の宗教なんかが蔓延してはいない。それはレトルト食品のようなもので、人間の怠惰な心につけ込んで広がっていくのである。
何のために宗教を信じるのか。それは結局のところ、みんなと同じ幻想に囚われたいというだけなのではないかと思われる。そもそも宗教というものは死、そして生をどのように解釈するかというところから始まっていると聞く。
それに対する答えが、個々の宗教。それらは、その死の後のために正しく生きろと主張する。かくして宗教は、自由勝手な生活を諫め、生活に規律をもたらそうとする。
このように宗教には肯定的な面もある。ただし、それだけにとどまらないから問題なのだ。それぞれ勝手にやってくれているのであれば文句は言わないが、本質的にそんなことはあり得ない。こうだと信じることに意味があるのだから、それ以外の人間が別のものを信じていれば、当然に不安になることだろう。そして、その他者をつぶしたいと考えるようになるだろう。どの宗教も甘ったるいことを言っているが、それはあくまで同じものを信じる人間に対してに他ならない。そんなことはヨーロッパ各国が新大陸でどんなことをやっていたか考えれば容易に理解できることだ。
そんな宗教から解放されるための一つのアイディアが、タイトルに挙げたホームメイド宗教である。つまり、自分で宗教を作る。自分の神は自分で考える。内なる自分の神に対して常に誠実であろうということである。一人一人が個人レベルでの信仰を行うのだから、余計な教義も儀式もない。そして、他者の排斥などもない。実に平和的に、宗教のうまみを味わうことができる。
もっとも、こんなものが流行っていれば、世の中に既製品の宗教なんかが蔓延してはいない。それはレトルト食品のようなもので、人間の怠惰な心につけ込んで広がっていくのである。
登録:
投稿 (Atom)